ダブとは・・・なんだ?

KING TUBBY

「大豆は畑のお肉」といいますが、どうせ食うなら本物の肉を選びます。今回も深夜の更新「サトル日記」。
ここ2、3年レゲエ(ルーツレゲエ)やダブを聞いていて、ゆる〜い雰囲気にひたっている俺ですが、そもそもダブとは何か?ということに気づき、今日は調査結果を発表したいと思います。
 
DUBのことを語る前にDUBが出てきた頃のジャマイカの音楽背景について語るとわかりやすいでしょう。
 今日のDJの起源は50年代のいわゆるサウンドシステムマンまでさかのぼることが出来ます。当事のジャマイカには、JBCという英国のBBCを真似した国営局があるだけで、それもアメリカのR&Bやスカなどは決して放送しませんでした。しかもアメリカからの輸入されたレコードは高くて手が出ない。
そこで体を動かし踊れる熱い音楽を求めるキングストンの若者の唯一の楽しみは、海の向こうのニューオリンズやマイアミのラジオ局からの放送を熱心に聞くことでした。
そんな職もなく金もないゲットーの若者を海の向こうから聞こえてくるファッツドミノ、サムクック、ドリフターズなどの歌声が完全に捉えてしまったわけですね。
 このような時に、車にでかいスピーカー、アンプ、プレイヤーをつんで、マイアミやニューオリンズからHOTなディスクをつんでキングストンを流して回る移動ディスコ&レコード屋のモービルサウンドシステムが登場しました。おそらく彼らサウンドシステムマンはこれで一発当ててやろうと言う感じだったんでしょうね、予想通りこれが大当たりしました。

 そしてそれらの若者たちをひきつけるために自分たちの宣伝も兼ねて、野外パーティにサウンドシステムを持ち込み、ただレコードかけるだけではなく、それにあわせて冗談を言ったり、いろいろな宣伝を入れたり(八百屋の呼び込みみたい)したのがサウンドシステムDJの始まりです。
今でもジャマイカの何処かに市が立つとすぐにサウンドシステムが組まれ、いろんなバージョンにあわせてすぐにマイクの取り合いがはじまる姿をこの間テレビでやってました。
 そしてその過当競争に生き残ったのが、コクソン.ドット、デューク.リード、あとプリンスバスターなどです。

 そんな中からコクソンドットの下でエンジニアー&電気屋として働いていたキングタビーが、あるミキシング作業中にヴォーカルの具合をテストするために2トラックに録音されてたテープのリズムトラックを絞ったり入れたりしているうちに気持ち良くなってきて(笑)
意識的にカットイン・カットアウトをしたアセテート盤を作り、コクソンのサウンドシステムでかけたところ実に民衆に受けました。
これが今日的なDUBの始まりで、のちにプロデューサーのバニーリーが、プロデュースしたすべてのシングルのB面にキング・タビーを手本にして、リバーブやエコーを聞かせたリズム・トラックを入れるようになり、このやり方が今でも続いていて、B面に入れたDUBのことを通常、バージョンと呼びました。(ちなみにLPで、ボーカルが入った曲の後にDUBバージョンと、まぜこぜになったものをショウケース・スタイルと呼び、結構お得だったりします。
 キングタビーは、もともとラジオの修理屋さんだったものですから、機材なんかも自分の手作り特製で、当事のジャマイカの3分の2の機材は、タビーが作った物だと言われてたそうです。

 オリジナルの2トラックテープに手を加えて、いかにスリリングでエキサイティングなDUBに仕上げるかと言うことが、タビーやリーペリーのようなDUBマスターと呼ばれるエンジニアたちの腕の見せ所であるし、DUBバージョンのほうが、ボーカルバージョンより人気が出ることも、当事のシーンには多かったそうです。
 
そのバージョンにあわせて語るDJトーキングは、"スカンク"とか"トウスト"と呼ばれ1965年ごろタビーのサウンドシステムでDJをやっていたU・ロイが、今日で言うところのDJレコードスタイルのレコードを始めて吹き込み、このときは単にレゲエのボーカルトラックを消してそこに彼のDJを重ねて録音しただけの盗作まがいの微妙なものでしたが、大ヒットして彼の一時代を作り彼の大ヒットを突破口として、今日まで数々の若い才能のあるDJが、誕生しました。
(’79ブルース臨時増刊号REGGAEBOOK P40〜50遠藤斗志也氏参考) 

「ダブというジャンルの発足に関わったと言われている3人」
バニーリー、リーペリー、キングタビー。
誰がダブの元を作ったのか?と言うと実はこの3人ではなく、68年ジャマイカのスパニシュタウンでサウンドシステム所有していた RUDDY(ルディ)と言う人物で、デュークリードの曲をバージョンのみで、ボーカルのないスペシャルミックスがルーツと言われている。
この曲は、たまたま録音時にボーカル部分が一部欠如していたそうで、ルディが面白いので、かけっぱなしにしたところ、民衆にバカウケした。ボーカルの重要なサビが抜け落ちて、今で言うカラオケみたいなものだったのではないだろうか?
 当時、この時聴衆の中に、バニー、リー、キング、この三人がいたのは言うまでもない3人の中でいち早く行動に出たのはキングタビーで、このアイデアを借用しインストアバージョンに、U,ロイのDJ(トーキング)を入れ、試行錯誤する。
 72年にタビーは自宅の中にスタジオを建てバイロンリーから4トラックのミキサーを譲り受けてバニーリー、リーペリー、グレンブラウン、ウィンストントンライリー達が率先してこのスタジオを利用するようになりバニーリーが一番の客だったそうだ。これらのプロデューサー達はマスターテープをタビーのスタジオに預けっぱなしにして、そのマスターテープからタビーが、スペシャル ダブ バージョンをMIXするのが彼らのやり方だった。

DUB=キングタビーがあるのは、バニーリーやその他のプロデューサーが沢山のマスターを彼の元で製作し、配給し、タビーはその山のような資料の中から様々な実験ができたことで、タビーは中古の4トラックのミキサーを魔法の楽器のように扱えるようになり独自の音楽を完成させていったのだろう。 また、タビー特製のスライドフェイダーが彼のDUBバージョンの重要なスパイスになったのは言うまでもない、このタビーの影響を強く受けたのがキングジャミー、サイエンティストだ。
 DUBという大発明は、バージョン(今で言うところのREMIX)という概念を生み出した大もとで、その後の世界のミュージシャン達にどのぐらい影響を与えたかというと、UK・JA・US・FN・JPNの現在の音楽の取り入れ方を見てもよくわかると思う。

 作り出された量といえば、74年から79年のブラックアークスタジオの気狂いリーペリーのすさまじいパワーとセンス、現在JA・UK名盤として再発されているレコード、CDを見ていただければ良く分ると思う。
 しかも、リーペリーは独自に60年代の終わりごろからテープの逆回転とかトラックの中から気に入った部分だけを取り出しそれにディレイをかけ遅れて聞こえるようにすると言ったダブ的手法を用いていて、その全ての手法をからめたのがタビーなのだ。

つまり・・・60年代終わりから70年代初期に当時のジャマイカのハングリー音響スペシャリスト達が作り上げた合作音楽がダブなのだ。
とにかくダブのパワーは黒凄いのだ。ガンジャパワー満開なのだ!