ただのコピペ

 小雨が降る中、傘を差してY坂の学生街を歩く。二階建ての小さなハイツや、築二十年は経っているだろう古びたアパート。入口の周りには自転車が列を崩して並べてあって、集合ポストにはピザのチラシが散乱している。ベランダの片方が台座から外れて斜めになった物干し竿には、いつ洗ったのかわからない洗濯物が干してある。汚れた網戸に散らばった洗濯バサミ。きっと怠惰な生活を送っている男子学生が住んでいるのだろう。

 その風景は、一瞬にして現実を感傷に置き換えさせる。大学を卒業後、県外で就職した際に会社から与えられたのは新築のハイツ。間取りは七畳のフローリングとキッチン。トイレと風呂は別々で、特に風呂はゆっくり入れるスペースが確保してあった。その部屋に小さなテレビとビデオ、冷蔵庫に洗濯機、そして炊飯器にマットレスと、生活に最低限必要な物だけ持ち込んだ。

 慣れない仕事に疲れ果て、車や会社の鍵がジャラジャラ付いた鍵の束の中から、手探りで家の鍵を探し当てて開ける。ドアを開けると一人暮らしの独特な臭いが出迎えてくれ、スーツを空いている床のスペースに脱ぎ散らかしたら、誰の目を気にするでもない自由な格好に着替える。腹が減っても冷蔵庫の中には、賞味期限が切れて原型を留めていない何か以外に何も入っていない。生活が苦しい訳では無く、買い物をするという行為が億劫なのだ。

 そんな時はポストに投函してあったピザ屋に電話をする。一人なのでSサイズで十分に腹は膨れるのだが、千円以上からしか宅配しないのでMサイズを注文しなければならない。良く利用するので住所は登録しているみたいだ。電話番号とメニューを伝えるだけで注文は終わる。

 ピザが届くまでのこの時間を使い、風呂に入る。湯を張る手間さえ惜しいから、夏であろうが冬であろうがシャワーで済ます。毛が詰まった排水口にシャンプーの泡が溜まり、浴槽の隅々には錆とカビが顔を出している。見上げるとカーテンレールに吊り下げられた洗濯物。そろそろ取り込まなくてはいけない。

 まだ半渇きのバスタオルで体を拭いた頃にチャイムが鳴る。慌てて服を着て財布を片手にドアを開ける。目の前に立っていた訪問者は、ピザを持っていない中年の男だった。その男は長髪の国営放送の徴収員で、会社勤めの帰宅時間に合わせて訪問しているらしい。男は視聴料として数千円を要求してきた。

 しかし、男の横柄な態度に腹を立て、テレビを持っていないからという嘘を吐き追い返した。男は条例で定められた支払い義務欄のコピーを無理やり押し付けると、睨みを効かせながら渋々と引き返した。

 二度目に鳴ったチャイムこそが待ちわびた訪問者だった。お釣りが出ない様に準備していた代金を渡す。銀色の保温バックから出されたそれは、焦げたチーズとポテトの香りを漂わせ、今にも爆発寸前の食欲を増幅させる。

 瞬時に空箱と化したピザは、半透明のビニール袋に投げ込まれた。満腹で動かない体を横にしてテレビのスイッチを入れる。見たい番組があるのでは無く、静かな空間は時が止まったかの様で嫌いなのだ。ブラウン管の向こうの楽しそうな笑い声と対象的に、タバコのヤニで黄色くなっている天井をじっと見つめて暇を潰す。

 嗚呼、淋しい。孤独とはこんなに苦しいものなのか。夜という真っ黒なカーテンがどこまでも広がり、今という時間がとても長く感じる。本当にこの夜は明けるのだろうか、本当に太陽は昇るのだろうか。不安が全身に重く取り憑いて離れない。万力に挟まれているかの如く、強大な力に押し潰されそうになる。その時に三度目のチャイムが鳴った。

 時計は既に十時を回っている。重い腰を上げている最中にもリズミカルに低い音で鳴るノック音。何事かとチェーンの隙間から顔を出すと、そこに立っていたのは先程の中年男性。催促状を握った右手を前に突き出し、男はその長い髪を掻き上げながら国営放送の徴収を再度求めた。どうもテレビの音が漏れて聞こえたらしい。嘘がバレてしまった。

 自らのミスを怒りで誤魔化し、国営放送は見ていないという理由にならない嘘を吐いて追い返した。中年の男は不気味な笑みを浮かべながら、去り際にこう囁いた。

「十一時から始まる国営放送のニュースを見てください」

 男が引き返したのを確認して、素早くドアのロックをした。まったく気持ちが悪い、今夜はもうテレビを消して無理やりにでも就寝しようと、敷きっ放しの布団に潜り込んだ。

 寝れない。男への怒りが心臓を激しく揺さぶる。静かに時を刻む秒針の音を追いかける心臓の鼓動。そして眠れないのにはもう一つ理由があった。枕元の目覚まし時計を確認すると十一時を少し回っている。そう、男が帰り際に残したメッセージが頭から離れなかったのだ。布団から少し離れたリモコンを手繰り寄せ、国営放送にチャンネルを合わせる。

「次のニュースです、本日未明、国営放送の徴収員がY坂のハイツにて飛び降り自殺しました」

「現場には遺書が残されており、視聴料を徴収出来ない怒りから自殺を選んだ模様です」

「また、自殺の直前に住民と激しい口論をしていたとの情報も得ています」

「現在、警察では付近の住民に聞き込みをして、事件の真相を追っています」

 あの男だ。このニュースが真実ならば、もう時期この部屋にも警察が事情聴取に来るだろう。震える体を布団で覆い、四度目のチャイムが鳴る瞬間に怯えている。長い夜に鳴り響くサイレン。小さな音が次第に大きくなり、最大の大きさになった瞬間、その音は消えた。

 それと同時に布団から飛び上がり、外を確認しようとベランダのカーテンを開ける。間違いない、真下の道路で赤いパトライトが不気味に回転している。そして階段の方から近付いて来る革靴の音。ドアの前で止まった。

 居留守をする為に風呂場へと息を潜めながら向かった。風呂場を選んだ理由は、窓から外の気配を察知する為だった。足音が立たない様に呼吸を止めて忍び足でゆっくりゆっくりと歩を進める。ここで少しの間、辛抱すれば何とかやり過ごせる。お湯の入っていないバスタブに身を潜め、風呂場の窓から外を覗こうとしたその瞬間、頭の中は真っ白になり、ただ呆然とするしか無かった。

























「国営放送見られましたね、支払いお願いします」